第4章 この恩知らず、もう要らない
菊地瑠奈とアトリエの引き継ぎ日時を決め、長谷川栞は中野家へ戻った。
自分に半月の猶予を与えたのは、十年という時間に起きた出来事が多すぎて、ただ出ていくだけでは済まないからだ。片づけるべきことが、山ほど残っている。
なかでも一番厄介なのが――中野家の「上も下も」。
敷地五百平方メートルの別荘に、使用人は一人もいない。中野航平が「うるさい」と言った、それだけの理由で。
家の掃除は毎日、栞がやってきた。
出ていくなら、完璧な秘書みたいに、きちんと引き継いで退く。それが長谷川の人間としての誇りだった。
中尾美希に家事などできるはずもない。だから夫と子のために、腕のいい家政婦を選ばなければならない。
昼間は何人も面接し、一人ずつ航平の好みに合わせてスープを作らせた。夜、栞が家で食事をしていると、玄関のほうから切迫した声が飛んできた。
「佐々木さん、かかりつけ医を呼べ!」
中野航平の声。
妊娠してから、栞は血の匂いに敏感になっていた。胃の奥がきゅっと縮み、思わず眉をひそめる。
――怪我?
心配が先に立ち、反射的に玄関へ向かいかけて……足が止まった。
航平が、女を抱きかかえて駆け込んできた。いわゆるお姫様抱っこだ。冬の帝京市はしんしんと雪が降っていて、男の髪も肩も濡れているのに、気にする様子もない。
女をソファに寝かせると、苛立った声で怒鳴った。
「まだか! 早くしろ!」
顔を見るまでもない。中尾美希。
厚手のパジャマに身を包んだ栞が、脇から淡々と問う。
「……どうしたの」
朝、喧嘩したばかりの航平は栞を一瞥し、面倒くさそうに吐き捨てた。
「取り立てに遭って、肩を刺された」
「取り立て? 誰の借金?」
社長が破産でもしたのか、と栞は内心で思う。
返事を待つ間もなく、青白い顔の美希がか細い声を出した。
「ごめんなさい、栞さん……私のせいです」
「父がギャンブルで借金を……どうやって調べたのか、私が中野社長の秘書だって知って、夜道で待ち伏せして拉致しようとして……抵抗して、こうなりました」
「中野社長も残業でたまたま通りかかって助けてくれて……いなかったら、殺されてたかもしれません……」
「縁起でもないことを言うな」
航平が鋭く遮る。
「俺がいる。何もさせない。ただ、お前の部屋はもう安全じゃない。警察には通報した。犯人が捕まるまで中野家に住め」
「ダメ」
栞は即答した。
航平が顔を上げる。
栞の顔色も白い。ただそれは、血の気のない白さではなく、透き通るようなきめ細かな白。退職して、親友とも和解できたからか、頬には薄い血色が戻っていた。羽毛のように柔らかなシルクのガウンを羽織り、気ままな猫のように立っている。
朝から燻っていた苛立ちが、栞の拒否を聞いた途端、すっと引いた。航平は鼻で笑う。
――やっぱり。平然を装って、結局は嫉妬だ。気を引くための芝居。
低い声で釘を刺す。
「長谷川栞、ここは中野家だ」
主人は俺だ、と言外に。
「それでもダメ」
栞はきっぱり言った。
「部屋が足りない。寝る場所がない」
中野家は三階建てで広い。だが寝室として使える部屋は三つしかない。
蓮の部屋、栞の部屋、航平の部屋。満室だ。
新婚当初は客室もあった。だが甘かった頃、航平が他の部屋を全部改装させたのだ。豪華な授乳室、ウォークインクローゼット、ブランド専用の収納、温室、絵のアトリエ、ヨガルーム――寝室だけが増えていない。
本当は子どもを二人、男の子と女の子に、と考えての三部屋だった。
まさか、夫婦が別々に寝る日が来るとは思わなかった。
その理由で拒否され、航平の顔が一気に曇る。噛みしめるような声が落ちた。
「……長谷川栞。お前が俺の部屋で寝ろ」
つまり、二人で寝ればいいと言っている。
三か月前だって、同じベッドだった。だから腹の子がいる。
でも栞は、もうどうでもよかった。三か月前も、男が酔っていただけだ。
憎しみで抱くこともない。憎しみすら、もう残っていない。
栞の頑なさに、航平の怒りが燃え上がる。
そのとき、二階から眠そうな声が降ってきた。
「パパ、ママ、どうしたの……また喧嘩?」
中野蓮が、目をこすりながら階段を下りてくる。言い終える前に、ソファで血を拭われ治療されている美希を見つけ、ぱっと目が覚めた。
「美希おばさん!」
駆け寄るなり、矢継ぎ早に尋ねる。
「どうしたの? なんで怪我したの? 痛い? 大丈夫?」
美希は微笑み、蓮の頭を撫でた。
「大丈夫。蓮、寝なさい」
「寝ない! おばさんが良くなるまで寝ない!」
子どもはしがみついて離れない。
その姿を見て、栞はふっと口角を上げた。
「蓮、心配しなくていいよ。数日は美希おばさん、うちに住むかもしれない。でも部屋が足りないの。美希おばさん、蓮の部屋で一緒に寝てもいい?」
「ほんと?!」
蓮の目が丸くなる。嬉しさが爆発しかけて――慌てて口を押さえた。
「ち、違う! ママ、そういう意味じゃ……」
母が美希を好きじゃないことを、蓮は知っている。以前、美希と遊びすぎて帰宅が遅れたとき、栞がひどく怒った。それ以来、父に教えられたのだ。ママの前では、美希おばさんがどれだけ良いかを見せるな、と。
「いいよ。そういう意味で」
栞は静かに言い、パジャマの下で冷えた手を腹へ当てた。
――これが、恩知らずってやつか。
今日、初めて分かった。
蓮が生まれた日。栞は二日も難産で、医師に「助からない」と言われた。航平に「母体か子か」を選べ、と。
男は目を真っ赤にして、手術室の外で叫んだ。栞を選ぶ、と。
でも栞は泣きながら頼んだ。子どもがほしい。航平との子だけは、何があっても守りたい。
麻酔も打たず、息を繋いで自然分娩で産んだ。仕事を捨て、手をかけて育てた。
それなのに。
息子は他の女を好きになり、母を替えたいと言う。
栞は、本当に疲れた。
腹の子だって、正直、産みたくなかった。先週の検診で分かったとき、最初に浮かんだのは中絶だった。絶望の中で、もう航平の子を増やす気はなかった。
けれど、去ると決めた今――ほんの少しだけ希望が芽生える。
中野家という枷がないなら、私と子どもは自由に育てられる。そうしたら、少しは……。
栞はもう振り返らず、階段を上がっていった。
蓮には、母がなぜそんな顔をしたのか分からない。呆然と背中を見送り、しばらくして――突然、崩れるように泣き出した。
子どもは敏感だ。何も分からなくても、血の繋がりが告げる。
自分は今、捨てられたのかもしれない、と。
「うわあああっ……!」
美希が慌てて抱きしめる。
「蓮、泣かないで。おばさんがいるよ。怖くない、怖くない」
不安げな目で航平を見る。
――ほら、長谷川栞がまた子どもを泣かせた。
航平の顔は重い。二階を見上げ、結局何も言わなかった。
